
この写真は2011年の夏に湯野浜海岸において妻が撮った1歳8か月の息子の写真です。生まれて初めて海に入った彼がびっくりして泣きだした写真。
同行した家族や親戚にとって、この日この瞬間に起きたことは真実ですが、そうじゃない…つまりこの場にいなかった第三者にとってはその出来事が本当かどうかが疑わしく、そしてそんなことさえもどうでもいい時代にいま入ってきています。
つまり生成AIが進化し続け今後世界を席巻していくというのはそういうことです。写真とはそこに写っているものが「存在した」ことが前提ですが、今後「写っているように見えるが実は存在しない」という画像がその前提を飛び越え、存在したものを写した写真と存在しないものを作り出した画像が世の中に入り混じる。そうすればおのずと「写真は存在するものをその場にいなかった他者に伝える」という役割を失っていくでしょう。
そのこと自体に僕みたいな一介の趣味写真家が抗っても仕方ありません。これまでも時代の流れで文化の本質自体が変化していったものはたくさんありましたからね。
ただ、先月に上記のことをぼんやり考えたときに、僕はやはり存在したものを記録し続けていきたいと強く思ったんです。
今回の写真、生成AIに頼めば青空の下で笑っている画像に書き換えることも出来る。けれどもこの日の僕と妻の記憶に一致しないそんな画像に何の意味があるのでしょう?
そもそも一般庶民にとって写真とはごくごく小さいコミュニティだけで共有されるものでした。
修学旅行に家族旅行、運動会や地域のイベント、家族の誕生日にお正月など、全ては記念や思い出の記録であり、そしてそれは主にその体験の参加者を始めとしたごく身近な人間で共有されるのが前提でした。それがインターネットの誕生、およびSNSの普及により、いつしか誰もが世界に発信する報道や広報、レビュアーになった。
だけど、僕の勝手な推測ですが写真はまた小さいコミュニティでの共有こそが醍醐味になる時代になる気がします。具体的には家族や仲間などです。写真館で撮る記念写真や、お父さんが撮る家族写真にこそ価値が発生する時代。
そう思ったので、僕は地域コミュニティに「何か行事があったら俺に写真を撮らせてほしい」と働きかけました。息子の小中時代にPTA活動を頑張ったおかげで、ちょっとばかし顔が広いのがこういうときに役に立ちます。さっそく先日行われたスポーツレクリエーションなどを撮影させてもらいました。
もちろんそのような写真はSNSやブログに一切公開はしません。
でも、その限られたコミュニティの仲間たちと共有できただけで充実感に満たされました。いいね!もリツイートも無い世界ですが、写真の持ってる本質に一歩近づけたようなこの満足感を忘れずに、これからも声が掛かればカメラを持って外に出ようと思います。


