点から線へと

最近ふとしたことから岩手県の遠野市のことがとても気になっている。柳田邦男遠野物語が口語訳されたものも読み始めた。

なぜ、こんなに遠野に惹かれているのかといえば、恐らくいま僕は原風景というのを毎日探している。いや、例え観光で21世紀の遠野市に訪れたとしても、そんなものを目にすることは出来ないのはわかってはいるのだが、それでも行ってみたいのだ。たぶん近いうちに足を運ぶことになるだろう。

それにしてもだ。

今回の件で遠野を被写体にして創られた2冊の写真集をみた。森山大道の遠野物語と地元出身の写真家が撮った写真集だ。

「記録写真」という意味では明らかに地元写真家が撮ったものの出来が素晴らしい、と思う。なのに何度でも見たくなるのは森山氏の方だ。

この理由について風呂に入りながらしばらく考えてみた。が、もちろん答えは出なかった。

ただひとつ言えるのは、森山氏や荒木経惟のような大御所と呼ばれる方の写真を求める人たちは、もはや写真ではなく彼らの視点や感覚が知りたいのだ。

これは別に写真家に限らずロックバンドだってそうだろう。例えばローリング・ストーンズのレコードのほとんどは名盤だから売れたのではない。その時々でストーンズがどのように時代を受け止め、音楽でどのようなアンサーをするのかが知りたいからリスナーはレコードを買うのだろう。

ここまで書いて気づいたのだが、写真家も音楽家も小説家も、全てアーティストと呼ばれる方は点ではなく線で表現するようになる。というか、そのように求められていくのだ、と思った。

だから別に求められてもいないのに自ら「アーティスト」なんて言っちゃってるのを見ると、こっちが恥ずかしくなってくるのは恐らくそういうことなんだろう。

さて、僕はといえば2017年の4月から毎日のようにそのへんの道端や配達の休み中などに写真を撮っている。先ほどバックアップフォルダを確認したらそんな写真だけで15000枚を超えていた。最近では飽きるどころかノメりこむ一方なので、さらにどんどん増えていくことだろう。

これはいわばバラバラの点ではあるのだが、ひょっとしたらいつか誰かに求められるときがくるかもしれない。そしてそれは僕が死んだ後かもしれない。

そのときのためにこのデータのありかは妻にだけ伝えておこうと思う。僕が撮った写真を線としてみてもらって、あのとき僕という人間が何を見てたのか、僕以外の人たちにあーだこーだ想像してもらえたら幸せである。せめて息子だけにでも。

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