ひょんなことから僕の手元に古いネイビーブレザーが回ってきました。シルエットからして恐らく90年代のものです。
バーバリーのタグが貼り付けてありますが偽物かもしれません。でもヨレヨレでお話にならないという状態ではなく、しっかりと生地は生きています。
僕はさまざまな理由で意識的に服装を変えてから数年が経ちました。さまざまな理由で…というと思わせぶりですが、要は年齢的にストリート系のカジュアルさが似合わなくなってきたからです。
もちろんそれは40歳を過ぎたあたりから薄々気づき始めたので人知れず小奇麗な方へとスライドさせては来ましたが、50歳あたりでもはや限界に達しました。顔面がどんどんカジュアルダウンしてるのに服装まで全身カジュアルだと、もはや鏡に写る自分は競輪場に通うおじさんにしか見えません。ですので若者にこそふさわしいような手持ちのカジュアル衣類は全て捨てました。
きっと僕と同じような年代のおじさんたちは遅かれ早かれ同じ悩みにぶつかるものだと思います。その場合、昨今では機能性を活かしたアウトドアファッションに正解を見出すようですが、僕はそっち系が好きじゃないのでトレンドに左右されないややトラッドな方向に舵を切っています。
そんな理由もありネイビーのブレザーもすでに持ってはいましたが、この少々くたびれたネイビーブレザーが今回自分の手元に来たのも何かの縁と解釈し、最近ではジャンパーやカーディガン代わりにしょっちゅう着ています。とにかく何にでも合わせられるのがブレザーのいいところであります。
さて、若い人も聞いたことがあるかと思いますが、このネイビーブレザーというものが90年代初めに一世を風靡したことがありました。ダブルブレストに金ボタン。いわゆる紺ブレと呼ばれたそのアイテムは大流行し90年代初めのテレビドラマや街中でよく目にすることとなります。
僕はちょうどその頃上京したタイミングでした。当時はまさに田舎から出てきたばかりのコテコテのロック野郎でしたから、そういう流行に心の中で「ケッ」とか思いつつ、ボロボロのジャケットと細身のジーンズに身を包み、ボサボサの髪の毛をなびかせながら街を歩いていました。
そんな当時の僕のアルバイトは高層ビルの清掃業。とはいっても窓を拭いたりする仕事ではなくフロア清掃といってオフィスに掃除機をかけたりゴミ箱の中身を回収したりするだけの楽な仕事でした。
現場は新宿三井ビル。ちょうど完成したばかりの東京都庁のすぐ近く。JR新宿駅西口から歩いて10分ちょっとかな。週4日、18時30分から20時まで1年ほどやったと記憶してます。
僕の担当は確か42階と43階。そこのオフィスルームをぐるぐる回り、ときにはOLさんが「ご苦労様です」というメモ書きとともに残してくれてたクッキーに感激したり、偉そうな社長室のふっかふかの椅子に座り、大都会の夜景を眺めながら煙草をふかし、吸い終えた吸殻を自分で片づけたりしてました。
そんな楽しくもないけど特に辛くもないアルバイト生活に、ある日一人の男が入ってきました。
先輩のおばさん「オガーさん、こちら今日から入ったAさん。しばらくペアでやってもらうから仕事を教えてあげてね」
Aという男、聞くと年齢は僕の3つ年上で、神奈川の自宅から都内の大学に通ってるということ。そして髪型は爽やかなツーブロックに決め、服装は紺のブレザーにラルフローレンのボタンダウンシャツ、チェックのウールパンツに靴はローファーと、まるで当時の雑誌の「モテる男のコーディネート特集!」をまんまコピーしたかのようないで立ちでした。
もちろん僕の第一印象は「なんていけすかない野郎だ」でしたが、初対面では年下の僕にきちんと敬語を使ってくれたこと、そして無口でも無く、うざったくなるようなおしゃべりでも無く、いわば絶妙な距離感のコミュニケーション能力を兼ね備えており、日に日に僕の彼への印象も良い方へと変わっていき、たまに仕事帰りに牛丼やラーメンを食べに行く仲になりました。
僕は田舎から出てきたばかりの小汚いバンドマン。かたや華やかな大学生。明らかに世界が違う二人でしたが、若い男というだけで会話は成立します。
実際、A君の話は刺激的ではありました。サークルやコンパなどの華やかな大学生活。まさに青春を謳歌すると呼ぶのにふさわしいような若者の日常。社交辞令だと思いますが「今度女の子たちと深夜ドライブしてそのまま朝焼けを見に行くからオガー君も誘うよ」と言ってくれたり。
ただ、2つほど気になった点がありました。
ひとつは会うたびに先ほど挙げた同じ服装だったこと。そしてもうひとつは、このバイトには全くいないタイプの人間ということ。
というのもビルの清掃業ですから、こういっちゃなんですがそれなりの事情がある人間が多い世界でした。というより何らかの事情で人と会うような仕事は出来ないといった方が正しいかな。僕の場合は髪の毛が長いとかそういう理由で接客サービス業なんて最初から頭にありませんでしたが、そんなことよりもう少し深刻な理由を持ってる人も多かったです。
ですのでA君のような『小奇麗な大学生』なんて皆無で、だからこそ「わざわざこんなとこに来なくても華やかなバイトなんてたくさんあるのに」と僕はずっと思ってました。
そして数ヶ月が過ぎた頃、先輩のおばさんが僕にこう言いました。
「Aさん、昨日でやめちゃったんだってさ」
突然のことに一瞬「え?」となりましたが、まぁアルバイトの世界なんてそんなもんです。それにしてもひと言くらいあってもいいだろうと少し不機嫌になった僕の様子をみて、おばさんは続けてこう言いました。
「知ってた?あの子、学生じゃなかったんだってさ」
…じつはあまり僕はびっくりしなかったことを覚えています。「やっぱりな」という気持ちの方が強かった。
というのも彼は僕にたくさんの華やかな話をしてくれましたが、途中からなんというかどこかリアリティに欠けてるなという話が多かった。何というかメディアやマンガで拾ってきたようなそういう話が多かった気がします。
連絡先を交換してたのでその気になればその後も連絡を取れたのだと思いますが、なんとなく気が進まずA君とはそれっきりの間柄となりました。彼は何でも信じてくれるこの田舎から出てきたばかりの18歳の少年の前では華やかな男でいたかったのだろうと思いますし、僕は僕でそれでいいのだと今でも思っています。
紺ブレのA君。本当は何者だったのだろうか。いま何やってるのかな。