懐かしいという感情と付き合っていくことにした

一昨日の夜、とある打ち合わせから帰ってきて部屋に入ると妻が洗濯物をただんでいた。そのとき先日買ったecho dotから懐かしいギターの音色が。

「なにこれ?WANDSか?」

「いや、あいみょんだよ」

僕はそのままベッドに寝転がり最後まであいみょんのマリーゴールドを聴いた。

なんていい曲なんだと思った。そしてとても懐かしいと感じた。

それは「昔、住んでいた街を数十年後に訪れた」という懐かしさではなく、いわゆる「どこか懐かしい」という誰もが持っている普遍的な感情の方。

このときから「懐かしいと感じる気持ち」についてずっと考えている。

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アンチ・ノスタルジー

ノスタルジー、つまり郷愁を感じることを、長い間僕はあまりいいことだとは思っていなかった。

とにかく常に人は先をみているべきでそうじゃないと前へは進めない。過去を振り返って懐かしむなんてことはやることが無くなって余生を楽しむ立場になってからでいい、と。

そんな自分が変化してきたと感じた理由は、まず年齢を重ねたことが一番であろう。

年齢を重ねた。正確には家庭を持ったという方が正しいかもしれない。つまりさまざま守る立場になったということだ。

現代社会において、家庭を守るということは結局システムを保持していくという結論にたどり着く。つまり安定した社会を築き維持し続ける立場の一員になることだ。

ここが若い頃と決定的に違うところで、つまり失うものが少なければ守る意識も必要ない。だからこそいつの時代も若者とそうでない者はぶつかり合うし、逆にいえばそれは健全な社会の証でもあると僕は考えている。

と、するならば、守る立場に身を置く僕ならば稀に過去に目を向けることは必然ではなかろうか?ということに気づいた。

自分が写真を撮る理由

日常的に僕は写真を撮っている。

大まかに分ければその行為の内訳には2つあって、ひとつは学校カメラマンとしての仕事とプライベートの日常スナップ写真。前者の場合は問答無用で「正しい記録」と「人様に喜んでもらえるもの」を常に目指している。

逆に後者の方。こちらは何のために?と聞かれれば特に説明できる理由もなく、例えば小さな子どもが公園で珍しい形の石ころを集めて面白がっているのとたいして変わりは無い。

そんな感じだから嗜好も安定しない。というかむしろ凝り固まらないように意識している。

ただ、ひとつだけ最近感じてきたのは「僕がやっているような撮影だと、撮った写真の中にどこかにほんの少しでも懐かしいと感じる部分がないと良くないんじゃなかろうか?」ということ。それは一番最初にも述べた「どこか懐かしい」という普遍的な感情の部分である。

それを踏まえて

上記のことがここ最近の僕の中の変化である。

つまりこれまで懐かしいという要素を僕なりに省いて生きてきたつもりだが、これからはうまく付き合っていこうと結論付けた。いわばノスタルジーとの共存宣言。

森山大道氏の著書に「過去はいつも新しく、未来は常に懐かしい」というタイトルがある。

これが今の自分にはとてもしっくりくるのだ。この言葉とあいみょんのマリーゴールド。大げさに言えばこの2つが自分を次の段階へ押し上げてくれた気がして、今とても感謝している。

やはり世界は素晴らしい。

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