先日、僕がいつも見ている写真系YouTubeチャンネルのコメント欄で現代アートと写真の在り方みたいなことについてさまざまな意見を目の当たりにした。
僕自身、アマチュアながら若い頃からずいぶん長い間ロックンロールバンドのメンバーとして活動したし、今は楽器をカメラに変え、音楽を精製することから日常を記録することに形が変わった。
でも、根底にあるのはどちらも僕以外の誰かがちょっと気持ちが良くなるものを発信したいということに変わりはない。
思想を持ってロックをやることは大切だが、僕の思想が他人に波及するのを目的としたことはない。
写真はただの記録物だと思って毎日カメラを持ち出してはいないが、自己表現を行うための適切な手段だとも思わない。
だから「あなたにとってロックや写真はアートだと思ってやってる(た)んですか?」ともし誰かに問われても、「そんなことはありません。ロックは音楽だし、写真は記録です。」と答えるだろう。
そもそも現代アートに僕は興味が無いどころか嫌悪感を抱いている。これまでアートと呼ばれるものは時代性と、その中に生きる人間の本質に問うようなものだったはずだ。ところが今では誰もやったことがないことを主成分としてアートと称され、評価されることになっている気がする。
もちろん誰もやったことがなく、前例を破壊するのを目的とした奇抜なロックや写真表現があってもいいとは思う。だけど僕自身はそういったものに関わりたくないというのもまた本音である。
だから僕にとっての写真は記録性から離れることはしたくないし、今でも毎日ロックは聴くが音楽として聴いている。
さて、今年も飯森山公園の紫陽花を記録しに行こう。誰かに気持ちがいいと思ってもらえる写真が撮れるといいな。