「朝焼けを背中に浴びながら、俺はまだ目覚めぬ街の中をただ車を走らせる。どうということのない日常の景色の中に一瞬歪な光と影を見つけ車を停めた。シャッターを切り、また次の瞬間を求め俺は車を走らせる。旅は続いていく。」
僕が普段やっている行為をかっこつけて描くと↑ですが、実際は↓です。
「どれ。今日はゴミを出す日だな。ああ、めんどくせえ。今日は3つもあるじゃないか。すぐそこだけど両手に持って歩いていくのも大変だし車で行くか。ついでにセブンイレブンのコーヒーを買いに行こう。ペイペイでもらった一杯無料のクーポンがあるはずだ。…お、夜明けの港がエモイじゃないか。ちょっと止まるか。パシャ」
だいたい僕が毎日のように写真を撮ってるのはこういうことの繰り返しでそれがもう何年も続いています。つまり「あまり深く考えてやっていない」状態なんですが、さすがの僕もたまに…ほんとたまにですが「写真ってなんなんだ?」と見つめ直すときがあります。
ちなみにPTAの仕事でスクールフォトを撮るときは別で、いいと思える記録をして伝える、または残す。これだけなんで何も迷いも考え込むこともありません。粛々とやるだけ。
ふとしたきっかけ
稀に僕に訪れる…というか、何かを極めたいと思ってやってる人には誰にでも訪れるはずの「〇〇ってなんなんだ病」ですが、今回もふとしたきっかけでした。とある会合…というか先日の納品会ですね↓
この夜のメンバーとの会話の中で自分で言っときながらずっと気になってたことがあるんですよ。
「いやぁ俺は音楽から写真に転向してどっちもハマり込んでやってみた身だけど、この2つの決定的な違いはあれだね。音楽は無から有を生み出して外に放つ流れだけど、写真ってほら、外に出て誰かが作ったものだったり行動だったりを複写して持ち帰るわけだから、別に何かを創ったり表現したりとかそういう感覚はないよね。」
帰宅してからこれって本当だろうか?とずっと気になってましてね。
純粋な感性は世界を生み出す
結論からいうと↑で僕がうそぶいたのはやはり間違っています。写真はそんなに浅いものではない。
いつかの広報仲間同士の飲み会で「だって鳥海山なんて誰が撮ったってみんな同じになるじゃねーか(笑)なんでみんなわざわざ撮るんだよ」と僕が言ったのも間違い。
毎年同じ景色や花を定点観測のように撮る行為も間違いじゃない。
結局のところ撮影者が純粋に感性を刺激されてシャッターを切ったものならば、他者が正しいとか間違ってるということ自体がおかしいということです。
そしてそのような衝動だったり欲望だったりで撮られたものというのは、その人が写真という媒体を通して新しい世界を生み出したのだと十分言えるのではないかと。
僕はそう結論付けました。
写真は素晴らしい
僕は動画も撮りますし作ります。好きだからね。そしてどっちもまるで性質が違うものだから比べるのはナンセンスです。プロ野球とJリーグみたいなものです。
ただ、動画ってのはどうしても作り手の作為が不可欠ですし、鑑賞するための時間軸が線のように発生します。もちろんそこが面白いんだけど、逆に写真は撮り手の思惑なんてどこか蚊帳の外で一人歩きすることもやたらと多い。そこがどうしても僕は魅力的に感じてしまいます。
あと、写真のすごいところはですね。撮影も編集も送信も閲覧もそれ自体は簡単なんですよ。プリントすれば鑑賞方法もそれ単体で行える。そして短時間で観れるのに訴求力がある。量産も容易。
僕が写真を好きな理由はだいたいそのへんにありますし、大きな可能性と普遍性を感じずにいられませんね。そういった理由から今後どんな時代になろうとも写真が無くなることはないと思うんですよね。
もちろんAIでは撮影代行出来るはずもない感性が大事ですけどね。僕ももっと感性を磨いていかないとね。
いやぁ写真って素晴らしいものですね。ということで秋の夜長に僕もたまには考えるの巻でした。ではまた。