『頑張れ』を言う気持ち。言わない気持ち。

剣道

現代では『頑張れ』というワードがわりとNG扱いされるらしい。そもそも頑張ってる人に頑張れというのは失礼だとか、あるいは「これ以上何を頑張れというのだ!」という負の感情を引き起こしてしまうとか。

挙句の果てには漢字を変えて「顔晴れ」とか使う人もいるらしい。僕はそういう発想が全く好きじゃない。

頑張れ。とてもいい言葉だと僕は思っているし、息子に対して僕はしょっちゅう使っている。

特に僕は子どもたちに剣道をコーチングする機会もあるので、ちょっとキツめの練習を行っている最中などは「ほれ!頑張れ!頑張れ!」と応援しながら一緒にぶつかり合っている。

だけど絶対に『頑張れ』を息子や子どもたちに言わないときがある。それは試合、もしくは何かの本番を迎える直前だ。

昨年8月に行われたとある少年剣道大会。息子は男子個人戦の決勝まで勝ち進んだ。決勝戦の前というのはだいたい少々の休憩時間がある。そのとき彼はいろんな大人から「頑張れよ!」と声を掛けられていた。

その様子を僕は少し離れたところから眺めていたが、最後に近づき、「じゃ、行くか。いろいろ言われたことは全部忘れろ。いつも通り気楽にやれ。」と声を掛けた。

試合はなかなか決着がつかず延長戦を重ねた。最後に力尽きて息子は負けたが、もし、あのとき僕も一緒になって頑張れ!と言ったところで結果は変わらなかっただろう。

あの年頃の子どもに周囲の期待を自分の力に変える能力なんてない、と僕は思っている。なぜなら僕もそうだったからだ。

だから息子に限らず、決勝戦に限らず、いや剣道に限らず、何か本番を迎えようとしている子どもたちに、僕は頑張れと言うことは無い。

僕が少年剣士の頃、僕らの道場はこのあたりでは強豪だったから、大会の決勝戦の前などいろんな人から頑張れを言われた。それでも負けるときはある。負けたときにその頑張れを言ってくれた大人たちががっかりしている姿を見て、僕らがどういう思いを抱いていたか知ってるだろうか?

傷ついてるのだ。

なぜか?それは普段支えてくれている大人たちの期待に応えられなかった自分を恥じるからだ。期待された結果を出せなかった自分たちの頑張りを誇りに思うことが出来ないからだ。

だから僕は試合前、子どもに向かって絶対に頑張れとは言わない。そして、どんな結果になっても不機嫌になることは無い。

息子は決勝戦で負けた帰り道、息子はやけに明るく振舞っていた。準優勝だってすごいよな、と同意を求めてきたり、決勝戦の雰囲気って最高だったなと満足感を表現していた。

でも、僕は彼が負けた直後に面を外せないほど号泣していたことを知っている。それでいいのだ。涙は自分のためだけに流せ。

僕はこれからも練習のときだけ子どもたちにたくさん『頑張れ』を言うつもりだ。

画像は3月に行われた道場内の親子対決。これからもそうやって楽しく、そして自分のために剣道をやってくれればそれでいい。

タイトルとURLをコピーしました