令和6年能登半島地震の備忘録

備忘録

~令和6年能登半島地震においてお亡くなりになられた方々に謹んでお悔やみを申しあげますとともに、被害に遭われた全ての方々に心からお見舞いを申しあげます~

2024年(令和6年)1月1日16時10分頃、能登半島をM7.6(最大震度7)の地震が襲った。ここ山形県酒田市で記録した震度は4。そのときの自分自身の行動を備忘録として書き留めておきたい。

オガー家の元日の行動は決まっていて、昼前にお雑煮を食べ、ゆっくり過ごしたのち、だいたい15時半ごろに下日枝神社に初詣に向かい、帰りにコンビニで夕食を買い込んで、帰宅後は風呂に入り、そして「芸能人格付けチェック」を観る。だいたい毎年これであるし、今年も途中まではそうであった。

無事にお参りを済まし、おみくじを引いたら何年かぶりの大吉。これは幸先いいなと帰路に着き、息子が屋台で「ふりふりポテト」を買った直後にそこら中にいた人々のスマートフォンが一斉に鳴り出した。緊急地震速報である。

すぐに地面が揺れた。立っていられないほどではない揺れだった。だけど少し長く感じた。揺れが収まったのでさっさと帰ろうと思い駐車場に向かおうとしたが津波注意報が出ている上に、16時22分に津波警報に変わった。最大3mの可能性である。

市の防災アナウンスが不気味に響き渡る中、僕ら3人は日和山公園の高台にいた。海が見える。本当に3mの津波が来たらどうしようと焦る。でも僕が焦ると妻や子はもっと焦るので平静を装った。

消防署員の人が僕らのいる高台に集まって来た。海の方を見ている。僕らも同じように海を見ている。ふと気づいた。クルマの中にモバイルバッテリーが入っている。僕のスマートフォンは残り30%を切りそうだったので、なんとか取りに行きたかった。そしてタバコも取りに行きたかった。クルマはすぐ下の駐車場にある。歩いても2分だ。結局取りに行った。妹から電話が来た。自宅以外の家族は指定避難所である近くの小学校へ行ったとのこと。

クルマから取って来た加熱式タバコを吸った。いまいる場所が喫煙禁止エリアだとかそういうことはどうでもよかった。今すぐタバコでも吸わないと頭の中が整理できなかった。今すぐクルマに乗り込んで山の方へ逃げたかった。けれどもここで動く奴が死ぬんだという心の中の警報が気になり、とりあえず状況が変わるまでここにいることにした。

もし本当に3mの津波が来たら、あそこに停めてある僕のクルマは流される。家族の思い出がたくさん詰まった僕のクルマが無くなってしまうのはとても悲しい。だけど事務所の僕の引き出しに入っている小遣いの残り3万円も気になった。20万キロ近く走った僕のクルマと3万円。この期に及んで自分が気になる財産ってのはそれしかないのかと腹が立った。もっと高価なはずのカメラやレンズは不思議と気にならなかった。

1時間近く経過した。第一波の津波が30センチというのを聞いた。もちろんそれで安心したわけではないし、津波は第一波より第二波以降の方が恐いというのも知ってたが、こんな寒いところでこれ以上待つのも嫌だったのでクルマを動かした。

郊外へ逃げた。地震発生直後はここの道路も渋滞したらしい。やはり災害発生直後にクルマで逃げるのは悪手ということなんだろう。一時間たったこのときはスイスイだったが、次回もそうとは限らない。肝に銘じておく。

郊外のコンビニはどこも満車だ。みな考えるのは同じだ。3件目のコンビニでようやく駐車場に空きがあったので入店。それぞれ弁当を買い、近くの体育施設の駐車場で食べた。車載テレビで情報を得る。輪島市の火事がすごい。阪神淡路大震災の中継を思い出した。

20時半に自宅に戻った。警報はまだ出ているから何の根拠もないのだが何となく帰った。いつもなら眠くなる時刻になっても眠くない。結局津波警報が津波注意報へ変わった午前1時頃に寝た。

翌朝。津波注意報は午前10時に解除されたが、その後もずっとテレビで現地の状況を見て過ごした。

1月1日なんて一年で一番家族でゆっくり過ごす人々が多い時間だろう。そんなときにこんな災害はむごいし腹が立つ。神も仏もありゃしない。ありゃしねぇんだ。

今回でますます確信した。日本に住む以上は地震は起こる。地震を起こらない場所なんて無いし予知することも避けることも出来ない。自分の住むところにもいずれ起こるもんだと思いながら暮らすしかない。そうすることにした。

画像は何故か残っていたスクリーンショット。撮った記憶もないし、何故撮ったのかも覚えていないがカメラロールに残っていた。

 

 

 

 

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