では「自分の写真」とは一体何なのか?という話。

先日、晴れた日に梅の写真を撮りに行ったんですよ。

特にどうしても梅の写真が欲しかったわけではありません。自分の住んでる街で梅が咲いたので撮りに行ったって感じですかね。たぶん三週間後には桜もそんな感じで撮りに行くでしょう。名所に三脚を持ち出して、ということは恐らくしません。いつものように散歩がてら近所に、という感じで。

ところでこの写真、花写真を専門でやってる方からすれば下手くそな写真でございましょう。少なくとも上手な写真ではないと思います。

けれども最近の僕は、そういった「上手な写真」にめっきり興味が無くなってしまいました。花の写真に限らず、風景でも何かしらのイベントでも、タイミングが良く上手で綺麗な写真というものは人様が撮ったものを見るだけで満足するようになりまして。

けして負け惜しみじゃありません。今回はそんなお話。

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昔みた記憶

この梅の写真を撮った日の夕食時、ばあさん(僕の母親)が作ったいつものように煮込みが足りないカレーを食べながら、僕は妻に言いました。

「今日いい写真が撮れたんだよ。ほら」

妻は僕から差し出されたスマホ画面の梅写真をみて、ボソっとひとこと。

「梅の写真だね」

「これこそ俺が昔どこかで見た写真だ」

いつもどおりのレスポンスの悪さに、思わずそう熱く語る僕。と、同時に「あれ?昔みた写真?なんだそれ?だからどうだって言うんだ?」と自問自動。

しばらくの沈黙のあと、妻がこう切り出しました。

「あなたが写真を撮る理由はきっとそれだね。自分の記憶の断片、いや、ひょっとすると人類がDNAレベルで記憶してる景色や瞬間。それを無意識のうちに探してるのよ。やっぱ人間ってそこから逃れられないもんなんだねぇ」

結局そこ

これは自分の中で結構ショックでしてね。

ヒマだからっつーてカメラ持ち始めて、写真が趣味だろといえば滝だろっつーて滝とか撮ったけどいまいち面白くなくて、山居倉庫も夕焼けも面白くなくて、でも例えば息子の友達をキレイに撮れたりなんかすると喜んでもらえるものだから、じゃあもっと上手くなりたいぜーとか思って、毎日そのへんで練習がてら写真撮ってたらそれ自体が面白くなっちゃって、ふと気がつけば同じことに戻っちゃってたという。

だって音楽やってたときと変わんないですよね。動機付けがね。

人間って恐ろしいね。全く新しいことをやってた気がしていました。

写真を撮る意味

人間は年を重ねれば重ねるほど無駄な行動を恐れる。これは恐らく誰もが持つ防衛本能だと思います。

なぜなら我々は死に向かっているからでしょうね。それはおっさんになればなるほどその自覚が出てくるのが必然だと思います。

でも、やっぱさすがのワタクシもね、こういうのばっか撮ってると自分で「意味あるのかこれ?」と疑問に思っちゃうときがあるわけですよ。そもそも誰にも求められていないわけだし。

ピンときてファインダー覗いてシャッターを切るのが写真撮影という行為なわけですけど、これまでその自分の中でピンとくるセンサーがなんだかわかんなかったんですよね。

だけど今回の「梅の写真」でようやくわかりました。そして腑に落ちました。相変わらずちゃんと自分の欲望に逆らわずに生きてることが確認できて嬉しいです。

これから

結局僕は人間の欲望に基づいたモノが好きなんですよ。そいつの源流というか性癖というか。

逆に言えば、それが先に来ていない表現物に異常に抵抗を持っちゃうのよね。「そんなくだらないことに利用しやがって」とね。

例えば人間って共感する生き物なんだけど、その共感を得るための手段として生み出す音楽や写真なんてクソでしょ?僕はとてもクソだと思うんですよ。

そりゃ僕だって自分が撮ったもの、以前であれば鳴らした音楽に共感が欲しいし欲しかったですよ。だけど、やはりその前にまず自分ありきじゃないとね。そこをないがしろにするのはとても失礼なことだと思います。簡単に言えばそうねぇ、「そんなもんロックじゃねーよ」ですかね。

というわけでこれからの僕は写真でロックやります。欲望まみれの写真を撮り続けますよ。まるで公園で遊ぶ小さい子がひたすら石ころを集めるように。

そんでそのうち共感が欲しくてたまらなくなったら自費出版で写真集でも出すかな。

ではまたっ!!

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