息子が通う小学校が今日から全面再開となった。
先週までのリハーサル的な登校時も僕は旗を持ち交差点に立っていたが、やはり全面再開となれば僕の気分も違ってくる。今日からまた張り切っていきましょう。
さて、僕がこのようにして登校時の防犯活動を兼ねた交通安全おじさんを始めたのは、昨年11月のとある日に派手な交通事故があり、「こんなことが登校時に起きたらシャレにならん」というのがキッカケである。
特に社会貢献意識も持っていない。自分の息子、そして奴が通う学校の仲間たちが、万が一寝ぼけたドライバーの運転する車によって起こされた事故の犠牲者になったら、僕は一生悔やみ続けるだろう。それが嫌だからやってるだけ。
ま、正直、子どもたちの様子を見てるのも面白い。
今日あたりなんて「さぞ、子どもたちも学校が始まって嬉しいだろう。みんなはりきって登校したんじゃないか?」と思うでしょ?残念、それはいわゆる幻想。フォトコンテストで入賞しちゃう写真のような子どもの理想像ってやつである。
こんなに三ヶ月近くも異常事態を過ごしてきた彼らが、「はい!元通りになってね!」と言われて「はい、そうですか」となるわけがない。みんながみんなそれぞれの生活リズムで過ごしてきたわけだし、今朝だって一人一人のテンションだってバラバラ。むしろ以前のように元気な挨拶の声が響き渡るなんてことはない。
だが、それでいいのだ。みんな生き物なんだから、また徐々に環境に慣れていけばよい。
とにかく僕が学校に求めているのは学習もさることながら、きちんとした枠の中での社会生活である。無人島で一人狩猟生活を行うのでもなければ、いずれ飛び込む世の中というものには枠がある。その枠の中でどうやって個性や能力を発揮していくか知恵を捻り出すのが醍醐味でもある。そのための訓練は大切だ。型破りに生きていくのは結構だが、そもそもその型を知らなければ破るもへったくれもない。
いくら失敗してもいいのだ。というより子どもに対し失敗という評価は存在しないからだ。そのための「保護者」である。だからどんどん挑戦してほしいと思う。