おかしくなった社会をありのままに

散文的日常記録

冬季オリンピックの話題になると、否が応でも98年の長野オリンピックを思い出す。僕が7年住んだ東京から酒田にUターンしてきたのがちょうどその時期だからだ。

2月8日という正確な日付も覚えている。東京駅から昼前発の新幹線に乗り込み、特急を乗り継いで16時頃酒田に着いたと思う。

もちろん感慨深いものはあったはずだが、今一つ帰ってきた実感は無く、引き払ってきたあのアパートでの生活はまだ続いていて、いつでもそこに戻れるんじゃないかという妙な妄想がしばらくつきまとった。

要はそれまでの自分の生活リズムと環境で培われた感覚に対し、酒田でのそれにズレが生じていたんだと思う。壁…というほどおおげさなものでは無いが、薄い膜やフィルター越しで毎日を眺めているような、そんな独特の世界が完全に薄れていくのに数ヶ月が必要だった。

じつはあのときほどではないが、ここ最近になって再び僕は薄い膜やフィルター超しの世界を感じ始めた。

二年前から始まった新型コロナ騒動の流れについて、僕は自分の考えを強く口にしたり書いたりしたことが無かったし、特に前半の一年間は僕も「得体のしれないウィルスだから仕方ないよね」という気持ちではあった。ただ、ここ半年あたりは明らかに今の在り方について疑念の方が強い。

感染が怖いという気持ちはわかる。誰だって病気にはなりたくないし、僕も隔離なんぞされたくない。

ただ、何にでも過剰な人々がいる。

怖いから人が集まるイベントに行けない。学校にも行かせたくない。修学旅行なんてもってのほか。外食はしない。

というのであれば、各々がそういう選択をして、その選択が認めてもらえるよう働きかけをすればいいのに、

「イベントはするな」

「学校は休みにしろ」

「修学旅行なんてありえない」

「飲食店は休ませろ」

…なんてことになり、何故かそれに合わせてしまう。それでは社会がおかしくなって当たり前なんじゃないのか?と思う。

明らかにおかしい。明らかにおかしいのだが、僕は政治家でもロックミュージシャンでもないただの一般市民だから、それを何とか正そうというような抵抗はしないしする術もない。

せめてこの時代を経験したイチ市民としての日常をありのまま書き、そして写真を撮りつつ後世に残そうかと思っている。いつかそれを読んだ誰かが「このとき人類はアホな選択してたんだなぁ」と笑ってくれればそれはそれで面白い。

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