2011年3月11日14時46分、僕は事務所でとある見積書を書いていた。
突然、揺れ発生。だが「昨日大きな地震あったから、その余震だろうな」とタカをくくっていた。
だが、なかなかおさまらない。停電が発生し揺れも激しくなるばかり。これはただごとではない、とようやくわかった僕は自宅にいる生後三ヶ月の息子とばあさん(僕の母親)の方へ走った。あちこち身体をぶつけながら。
ようやく揺れはおさまった。あとから知ったところでは酒田は震度5弱だった記憶がある。いや、5強だったか?
いつまで経っても電気が繋がらない。その日は金曜日だったので、夜はバンドのスタジオリハーサルの予定だったが、とりあえずそちらは中止になった。
ばあさんが、「今日は夕飯の支度が出来ないので、コンビニで何か買ってきてくれ」とのこと。
セブンイレブンにいくと、暗い店内の中、レジには長蛇の列。なんとなくみんながピリピリしていた。
忙しそうに電卓を打つ初老の店員に、あるおばちゃんのお客さんが申し訳なさそうに尋ねた。
「この電話にこの電池は使えますか?」
「忙しいんだから自分で調べて!!」
僕はすぐ近くにいたのでおばちゃんに声を掛け、適合するかみてあげた。「ありがとうございます」と何度も言われた。全然たいしたことをしてあげたわけでもないので、非常に恥ずかしかった。
弁当やお惣菜などは全て売り切れていたので、レトルト食品を買い込んでコンビニを後にした。
一応帰りにガソリンを満タンにした。
夜になり
夜になっても電気がつかない。テレビもつかないしPCもつかないからネットにつなげられない。僕のケータイはまだガラケーだったし、今と違ってクルマにもテレビはついていない。
つまり状況がわからない。
茶の間に全員集まって、ローソクのもと食事をした。なんとなくじいさんと息子だけがこの状況を楽しんでるようにみえた。
風呂を済ませ、さっさと寝ることにした。何も知らないのは不安なので、寝際にラジオをつけた。そのとき聞いたニュースが忘れられない。
「宮城県仙台市若林区の海岸付近で、2~300名の身元不明の遺体が見つかりました」
そのとき初めて、今回の災害の規模が生半可ではないことを知った。
朝になり
朝になっても状況は変わっていなかった。相変わらず信号もついていないので、外出する気もしなかった。
結局電気が復旧したのは、14時頃だっただろうか。さっそくテレビをつけてみて、今回の災害規模の大きさを目の当たりにすることとなった。
津波の映像に戦慄が走った。幼い頃にみたウルトラマンレオのオープニング映像が蘇る。まさにあのようなドス黒い水だった。
地震災害の怖いところは、時間が立つにつれて「えらいこっちゃ」という知らせが飛び込んでくるところである。
思えば阪神淡路大震災のときもそうだった。あのとき僕は23歳。東京で暮らしていた。昼前に目を覚ましテレビをつけたときに一瞬わけがわからなかった。特撮映画のワンシーンか何かだと思った。
それから次々と被害状況をニュースで知ることになり、どんどん血の気が引いていったのを覚えている。
原発
「福島第一原発がメルトダウンしそうだ」
そのニュースを聞いたときに、目の前が真っ暗になった。
チェルノブイリ原発事故のときに、僕は中2だったが、世界中が大騒ぎしてたので、原発事故の恐ろしさをそれなりに知っていた。
津波の被害を聞くたびに胸を痛めた僕だが、今度は自らが被害者となる可能性が出てきた。
「少なくとも東北地方は人間が住めない土地になるんじゃないか?」
僕はチェルノブイリのときに得た放射線の浅はかな知識だけでそう悲観した。
誰もハッキリとしたことが言えない状況が続いた。国のリーダー達さえも言ってはくれなかった。
僕は本当に国がピンチになったときには、ウルトラマンみたいなのが助けに来てくれると思っていた。そこまでは言わないまでも、国がこっそり開発している緊急事態救済ロボットみたいなのが存在すると思っていた。
しかし結局ウルトラマンもロボットも現れることはなかった。僕は初めて人類に失望した。
そしてメルトダウンしただのしないだの、ただちに影響はないだのポポポポーンだの、よくわからない日本語があちこちから飛び交う中、時間だけが過ぎた。
重苦しい日々
ガソリン不足がしばらく続いた。仕事にならなかった。ドラッグストアからも粉ミルクや紙おむつが明らかに少なくなり、あるいは全くみかけないこともあり、僕はとりあえずそれらを見つけたときには買い込むクセがついた。
買いだめは良くないという声が上がってるのも知らないわけではない。
だが、生後三ヶ月の乳飲み子を抱えて、いったいどうすればいいというのだ。
国のリーダー達でさえ、「ただちに影響はない」なんてあやふやなことを言ってる状況で、何も信じることは出来なかった。信じるのは危険とさえ思った。
テレビで、とある無名のミュージシャンが「こんなときに音楽なんかやってていいのかと悩みましたが、僕が被災地の方々に出来ることは歌しかないと思って」と言い唄いに行った様子を取り上げていた。
確かに素晴らしい歌や音楽は人に力を与えるときがある。だが、それを一番の目的としたときにその音楽は死ぬ。
禅問答のようだが、恐らくそうだろうと今でも僕は思っている。
そんな僕は金を一万円だけ振り込み、あとは粛々と以前と同じ暮らしをするよう努めた。
スタジオにも次の金曜日には行った。誰一人「今日やる?」なんて問いもせず、メンバーは集まってきた。そしていつものように音を2時間出して帰った。
自粛ムードが高まっていたから、予定されていたライヴも、僕ら以外のバンドが出演を取りやめた。仕方なくワンマンライヴになった。
朝昼晩と構わず、ケータイの緊急地震速報が鳴り、余震に驚かされる日々がしばらく続いた。
恥ずかしいが僕は無力だ。だけど無力は無力なりに「地震なんかに負けてたまるかよ」と歯軋りをしながら抗っていた。
中島みゆきの「時代」を毎日聴いていた。たまに涙がこぼれた。
あれから
8年。まだ8年しか経っていないのかという感じ。
僕が住む山形県酒田市は同じ東北地方といえど、直接的な被災地ではない。
だけど、あのしばらく続いたこの地を覆う息苦しい雰囲気を、なるべくなら僕はもう思い出したくもない。
あのとき生まれて3ヶ月だった我が息子は、今年キャンドルナイトのセレモニーで、酒田マリーンジュニア合唱団の一員として歌を唄う。
まだ8年。思い出したくはないけど、やはり忘れていいわけがない。