自分自身がみつめていたという証

先日、探し物があって倉庫の2階の物置スペースを漁っていたら、ドラえもんの単行本が出てきた。

僕が子どものころに買ってもらい、その後僕ばかりか弟や妹にも何度も読まれたものだからその姿はボロボロになっている。

いったん探し物を探すことをやめ、しばらくその単行本を読んだ。どこでもドアやタイムマシン。日本国民なら誰でも知ってるおなじみの道具たち。

ふと…

もし、いつでもこの場所からどこにでも行けるドアがあったなら、僕はカメラを持って写真を撮ることを趣味にしてなかっただろうな、と思った。同じようにいつでも過去の世界を訪れることがマシンがあってもそうだろう。

写真を撮る人には欲望があるから、カメラを持ちファインダーを覗き、そしてシャッターボタンを押すわけだが、その欲望の全てが「被写体を記録して自宅に持ち帰りたい」というものばかりとは限らない。

どちらかというと僕などは、変わっていくであろう人達や過ぎ去っていく時間、二度と訪れることが無いであろう場所。それらに対し、僕がそこに立ってみつめていたという証が欲しいからやってる部分が大きいのである。

それは世のお父さんやお母さんが、運動会や発表会で頑張る我が子の姿を自身の手で写真に収めたいという欲望に近いんじゃないかと思う。その欲望の前にはどんなスーパーカメラマンが撮ったスーパー写真も無力である。だって自分自身がみつめていたという証にならないのだから。

さて恐らくではあるが、僕が生きている間にどこでもドアやタイムマシンは発明されないだろう。ということは、僕にとって写真撮影機は死ぬまで必要ということだ。

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