テーマやコンセプトなんてイラネと思った話

昨日Twitterのタイムラインを眺めてたら、酒田のバンド、DOLIPULEの新譜先行発売のニュースが入ってきた。ツイート主はベースの優君居酒屋warkの代表である。

※僕が居酒屋warkにいってきた記事はこちら。

優君が公表してるので言っちゃうけど、今回のアルバムジャケットの写真は僕が提供したものである。いや、正確にはデザインワークを手掛けた酒井健太氏FRIDAYZ/酒田hope)に「素材」として提供したもの。

もちろん仲間の作品に関わることができたので、声を掛けてもらったのが嬉しいというのが一番の感想なのだが、当初数十枚送った中で「イメージでは一発でこれでした」と健太氏に言われたのは驚いた。

というのもあの写真は2017年の5月15日に、それこそ優君のお店であるwarkに行く途中に撮影した写真なのである。しかも目的は「瀕死状態にある自分のバンドの解散を決定する会議に参加するため」であった。

そのバンドが9年のキャリアの中で唯一ツーマンライブを行った相手がDOLIPULEであり、その生命にトドメを差しに行く途中で何気なく撮った写真が、いま彼らの新しい作品の表デザインの素材となり世の中に飛び立っていく。

僕は運命とか因果関係とか、何でもかんでもそういうのに結びつけて考えるのは嫌いだが、こればかりは不思議なモノを感じずにはいられない。

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あれ以来

ちょうどあの時期以来僕は熱心に写真を撮っている。ただ、僕がこういった世界に足を踏み入れたきっかけは少し異質かもしれない。

というのも、普通は「○○を撮りたい」とか「カメラという機械をいじりたい」というのが先にあって始めるらしいのだが、僕の場合は動画の制作から入っている。

制作に使う素材として欲しいものがある。頭の中にはイメージもある。けれども自分が未熟なため具体化も言語化も出来ないので撮影者に上手く伝えられない。

「だったら勉強して自分で撮れるようになってしまおう」と思ったのがきっかけである。

最初は動画を撮影した。そのうち必要に迫られて静止画も撮るようになった。そして今では何かにとりつかれたようにプライベートで写真を撮ることに没頭している。

テーマとかコンセプトとか

しかし最近ひとつコンプレックスが出てきた。プライベートの写真において自分には「これだ!」と思うようなテーマがない。

だからいろいろかじってみた。風景や夜景、星空も撮ってみた。花を撮ったら笑われた。でも全部楽しい。だが、それらをアップした自分のinstagramのギャラリーをみてみたら、まるで統一感がない雑多なものになった。

これがますますコンプレックスに拍車を掛けた。これでは自分が写真を通じて何を表現したいのかわからない。何かテーマなりコンセプトなりをみつけなければ、と。

鬼に聞いてみた

おなじみ僕の妻であり写真においては師であるに聞いてみた。

「そろそろしっかりテーマをきめて写真を撮った方がいいですかね?」

「くだらないからやめた方がいい」

「・・・(汗)」

「そういうのはあとで勝手に決まってくるから」

鬼はいつもこういった抽象的な言い方をする。おかげでさっぱり意味がわからない。

果たしてテーマやコンセプトを持たない表現活動なんてあるのか。少なくともおれはバンド活動をやってたときは「何があっても常にコンセプトを持って挑んでいれば大丈夫」とやってきたし、それが間違いだと思ったことは一度も無かった。

腑に落ちないままその日もカメラを持って出掛けた。

写真とは何か?

先日、僕がinstagramでフォローしている人が投稿した写真の下にこういったことを書いていた。

写真とは何なのか?
写真にしか出来ないこととは何なのか?
見るとは何なのか?
撮るとは何なのか?

始めて見たときからこの人の写真が僕はとても好きで、tumblrに上げている写真も見せてもらった。素晴らしい写真がたくさんあった。

「まぁあれだな。こんな写真を撮れる人まで自問自答してるくらいだから、おれみたいなひよっこが生意気にテーマなんか決めて撮るなんてちゃんちゃらおかしい話だよね」と思いつつも、自分なりに考えてみた。

「写真は世界を切り取ってくるもの」

世界?世界ってなんだ?世界はおれが作り出したものではないぞ?それを切り取ってくるということは、自分が無から有を生み出したということにはならない。元々あるものの一部を借りてきただけにすぎない。

すなわち写真は表現ではない。すでに表現があってその瞬間を借りてきたものと言った方がふさわしいだろう。だったらそんなものは作品とは呼べないのではないだろうか?

じゃあ写真って何だ?

「撮影者(僕)が世界の時間を止めてまで切り取りたいと思った画」

ということになる。つまり視点からくる感情をカメら・・・・・・・・・やめよう。

ただ言えることは、確かにこのような方向に解答を導き出してしまう人間が、テーマの一つや二つと一緒にカメラを抱えて街へ出るのはくだらないかもしれない。せっかく湧き出た直情的なモノを操舵したり抑制したりすることになるからだ。

ただ感情の赴くままにカメラを向けシャッターを切り続けてればいい。商業写真家でもなんでもない僕はとりあえずそんなもんでいいのだ。どうしても作品めいたことをやりたければ、その欲望の結果を後々かき集め、その中から共通するコンセプトを見出しピックアップしてまとめればいいだけの話。

・・・ここまで書いてまたひとつ気付いてしまったことがある。

そもそも

結局僕がいま音楽をやれてない原因もそこにあるのだ。コンセプトや意味を見出せないから。

だがしかし、そもそもロックンロールバンドをやりたいとか言ってた人間が明確なコンセプトに基づいて活動しようとするなんておかしな話じゃないか。

ストーンズはいつも山のようにある曲のストックの中からピックアップしてアルバムを作ったという。

過去の僕に言いたい。お前はあくる日もあくる日も曲を作ることだけ考えてれば良かったのだ。自分が演奏したい曲を。自分が聴きたい曲を。そしてそれらに従って舵取りをするべきだった。

また同じ間違いを犯してしまうところであった。もう写真を撮るにも、音楽をいつかやることになったとしても、そして生活するにおいてももはやテーマやコンセプトなどいらない。僕はそれらを求めない。

人間、生きていくうえで好きなことだけをやっていくのは難しいが、常に自分の感情の真っ直ぐな部分を見失わないことを心掛けるのはさほどでもないだろう。

テーマ、コンセプト、意味、カテゴライズ、大儀。そういうのは後でいい。自分ではない誰か、もしくは未来の自分がやってくれるだろう。

おしまい!マジメなことを書いたらクビが痛くなっちまったよ!ではまたっ!

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